カルティエ宝飾史とその時代周辺

  1. 宝石商カルティエ一族が成功した最大の理由は、各世代の流行と時代ごとの顧客の望むものを受け入れながら、カルティエ独自のアイデアをさり気なく製品に取り入れた無理のなさにあると言われています。パリからロンドン、さらにはアメリカへと営業網を広げ、初めは欧州の王侯貴族、次いでアメリカの新興成金たちを顧客として、膨大な数の極めて高価なジュエリーを世に送り続けました。様々なデザインと最高の製作技術を駆使し、多くの名品を残しました。カルティエの輝いていた時代の歴史を紐解いてみたいと思います。歴史の舞台はフランスのパリにあります。

第二帝政時代 (1852-1870)

フランス史最後の国王ルイ フィリップの治世後、皇帝ナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)とウージェニー皇妃により、フランス宮廷には華麗な趣味が復活します。時代の風潮を決めたのはこの皇妃、優雅さと洗練さを社会に広めました。当時のオートクチュールの巨匠、シャルル フレデリック ワースのスタイルや装飾のクリノリン 1 により女性のファッションは魅力的になりました。ワースは、後にカルティエ一族と深い関わりを持つことになります。

社会の繁栄とともにジュエリーもふたたび、女性の美しさにとって欠かせないものとなり、ルイ16世様式のスタイルが流行し始めました。ジュエリーの台座も、重いシルバーから軽いゴールドへと変化していきます。1860年頃には、スエズ運河 2 の建設が着手されたことの刺激を受けて、エジプト風やエトルリア時代のデザインへの興味を啓発しました。

1855年と1867年のフランス パリ万国博覧会においてフランスは、ジュエラーたち 3 の功績により世界中の敬意を集めました。そのジュエラーの中のひとり、ルイ フランソワ カルティエ(1819-1904)は、宝石商アドルフ ピカールの工房に入り、1847年には、同工房を任されており、カルティエ店(モントルゲイユ街29番地)として創業しました。1853年、パリの人々の贅沢の中心地のひとつ、ヌーヴ デ プチ シャン街に店を構えることになります。この時、プラチナを使用したことと、時計を制作したことが初めて記録されています。1859年には、社交界や花柳界の人々が行き交う区域に近い9番地、イタリアン大通りに店を移転しました。

カルティエのデザインは同業者たちの工房で製作され、ルイ フランソワ カルティエにより選び出されました。その製品は、非常に高い品質と優雅で落ち着いたデザインを特徴としています。この時代の最も著名な人々を瞬く間に惹きつけました。

しかし時は1870年、普仏戦争の勃発により、華やかな時は突然終わりを告げることになります。

第三共和政時代 (1870-1940)

1870年の普仏戦争により大敗したフランスは、皇帝ナポレオン3世とウージェニー皇妃は国を追放され、帝政時代が終わり、共和政にとって変わりました。権力の座についたのは新興の産業家を中心としたブルジョワ階級の人々です。

帝政時代の華やかさは拒まれ、時代の消費構造は新しい展開をみせました。百貨店 4ショッピング アーケード 5 の登場、割賦販売の施行などの劇的な変化が生まれます。この頃の女性のファッションは、腰のくびれを強調する ”腰あて” や ”パリ ボトム” が流行しました。1877年には、パリのオペラ座が落成し、1889年のパリ万国博覧会のためにエッフェル塔が建てられたのもこの時代です。

また1860年代に、南アフリカ共和国中部のキンバリーでダイアモンド鉱床の発見により石の価格が下がり、その後ダイアモンドは人々にとってより身近なものになりました。1878年と1889年の万国博覧会は、装飾美術におけるフランスの優勢を明らかなものとしました。特に、ジュエラーのブシュロン、ファリーズ、フーケは人々の注目を集めました。

ルイ フランソワ カルティエの息子のアルフレッド カルティエ(1841-1925)は、父のもとで修行をした後の1874年に会社を継ぎ、絶好の機会に乗じる事ができました。 ”宝石の信頼性と質、宝石のセッティングの確かさと優雅さ、製品の仕上げの完璧さ” という父により定められた基準を忠実に守り、アルフレッドは、ますます多くの顧客を満足させることができました。好みも財力も多様な顧客の需要に応えるために、製品の内容も豊富なものになっていきました。

時はベル エポック時代へと続いていきます。 その2へ続く…

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